幽霊(ゆうれい)

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幽霊(ゆうれい)


幽霊(ゆうれい)とは、死んだ人間が成仏できず姿をあらわしたもの、死者の霊が現れたもの。

古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。
だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった。
「戦死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や戦争での戦死者のように、死んだ時の姿のまま現れると言われる幽霊も多い。
幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに何らかの思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す(成仏する)という。
日本で葬式の際に願戻し、死後の口寄せ、あるいは施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえる。

昔話には「子育て幽霊」や「幽霊女房」、「幽霊松」(切られると血を流す松)などの話がある。
日本は島国であるためなのか、海の幽霊の話も多い。船幽霊とも言う。その内容とは例えば、幽霊船が現れて、幽霊が「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水船(水没してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする。紀州に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる。

幽霊は室町時代以降、歌謡や歌舞伎のテーマとしても扱われるようになった。

津村淙庵の話(1795)では相州(神奈川)にある灯明台に7月13日にかならず、遭難した船の乗員の幽霊が集まったという。

出会った時点では幽霊であるとは気づかず、後になってから、すでに亡くなった人物(=幽霊)であったと気づく話は、古代から現代にかけて語られている。

『日本書紀』:雄略天皇9年(465年)条の記述。
『耳嚢』 巻之五:寛政7年(1795年)に亡くなった侍の話。

伝承される文化・伝承として

江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には幽霊話が大流行し、雨月物語、牡丹燈籠、四谷怪談などの名作が作られ、また講談・落語や草双紙・浮世絵で描かれ花開き、現在も題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。

1825年7月26日に江戸の中村座という芝居小屋で「東海道四谷怪談」が初公演された事に因んで、7月26日は「幽霊の日」となっている。

幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻

日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた。歌謡などの中でそうされていた。

江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子(ぬかえぼし)をつけ白衣を着ているとされることが多くなった。

元禄年間(1688-1704)刊行の『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた。だが、『太平百物語』(1732年)では、幽霊の腰から下が細く描かれた。

享保年間(1716-36)ころになると、下半身がもうろうとした姿で、さらに時代を経るとひじを曲げ手先を垂れる姿で描かれるようになり、定型化した像(ステレオタイプ)が形作られていった。

1785-87に書かれた横井也有の『鶉衣(うずらごろも)』には、腰から下のあるものもないものもある、と書かれている。

墓地や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時(逢魔時、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸期を通じて現代にまで及ぶステレオタイプが形成されたと思われる。

定型化した"死装束の幽霊"、"足のない幽霊"

『乱れ髪に天冠(三角頭巾)、死装束の足がない女性』という、芝居やお化け屋敷などでもおなじみの定型化した姿は(いわば「日本型幽霊」)は、演劇や文芸の影響が大きいと言われている。河出書房から出版された『渡る世間は「間違い」だらけ』によると、歌舞伎の舞台「四谷怪談」の演出で幽霊の足を隠して登場したものがルーツだとしている。江戸期に浮世絵の題材として描かれてから定着したものである、とも言う。『番町皿屋敷』の影響もあるともいう。円山応挙(1733-1795)の幽霊画の影響もあった、とされる。応挙の幽霊画は江戸時代から有名であったらしく、その後多くの画家に影響を与えたといわれている。

ただし、「足のない幽霊を最初に書いたのは円山応挙」とまで言ってしまう説については、俗説あるいは不正確な説、と指摘されており、実際には、応挙誕生以前の1673年に描かれた「花山院きさきあらそひ」という浄瑠璃本の挿絵に、足のない幽霊の絵が描かれている。この時代にはすでに「幽霊=足がない」という概念があったようである。

この定型と対比する形で「海外の幽霊は足があるものが多い」と言うこともある。 幽霊の中でも「牡丹灯篭」のお露のように、下駄の音を響かせて現れる者もいるが、これは明治期になって中国の怪異譚を参考に創作されたものである。近年も死者の霊が登場する都市伝説が多く語られているが、外見上生きている人間と区別がつかない幽霊も多く、「死装束を着た足のない幽霊」が「出現」することはほとんどない。(wikipediaより)


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