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百々爺(ももんじい)


百々爺(ももんじい)は、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある日本の妖怪。

画図では大きな杖をついた老人が描かれ、解説文では以下のように述べられている。

百々爺未詳 愚按ずるに 山東に摸捫ぐは(ももんぐは)と称するもの 一名野襖(のぶすま)ともいふとぞ 京師の人小児を怖しめて啼を止むるに元興寺といふ もゝんぐはとがごしとふたつのものを合せてもゝんぢいといふ
原野夜ふけてゆきゝたえ きりとぢ風すごきとき 老夫と化して出て遊ぶ 行旅の人これに遭へばかならず病むといへり


この解説では、石燕は百々爺のことを「未詳」としながらも、原野に出没する老人の妖怪としており、通行人がこれに出遭うと病気を患うものとしている。また、文中にある「もゝんぐは(モモンガ)」は実在の動物の名前であると同時に、関東地方で化け物を意味する幼児語であり、顔つきや体で怪物のような仕草をして子供を脅かす遊びをも意味しており、「がごし(ガゴジ)」も同様に徳島県などで妖怪の意味で用いられる児童語である。石燕は百々爺のことを、これら「モモンガ」と「ガゴジ」の合成語と述べている。

本来「モモンジイ」とは「モモンガ」や「野衾」の異称であるとともに、前述の「モモンガ」「ガゴジ」と同様、東京都、神奈川県、静岡県、山梨県東部で妖怪を意味する児童語でもあり、聞き分けのない子供に対して「モモンジイに食わせるぞ」などと言ってしつける地方もある。他人を罵倒したり、自分自身を卑下したりする意味で「モモンジイ」と呼ぶこともある。また、江戸時代には毛深い獣や尾のある獣が嫌われ、そうした獣や鹿肉・猪肉のこともモモンジイと呼ばれた。この「モモンジイ」がこのような妖怪として描かれているのは、鹿肉や猪肉をキーワードとした何らかの絵遊びで描かれたものと見られている。日本で獣肉を食べることが禁止されていた時代には、薬食いと称して獣肉の食事を提供する店が「ももんじ屋」と呼ばれていたが、百々爺に行きあうと病気になるとされているのは、この薬食いに対する皮肉との見方もある。

昭和・平成以降の妖怪関連の文献においては、百々爺は普段は山奥に住んでおり、人通りのなくなった夜の町角や辻に現れ、人を脅かすものなどと解説されている。また、野衾の異称であることから、野衾の特徴を引き合いに出し、江戸時代から大正時代にかけて人を襲ったもので、闇の中を飛び回って「ガァガァ」と気味の悪い鳴き声をあげ、夜道を行く人の松明や提灯を吹き消すなどと解説されていることもある。野衾が歳をとると百々爺になる、または野衾が町へ現れるときには百々爺に姿を変えるとの解釈もある。(wikipediaより)


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茂林寺の釜(もりんじのかま)


茂林寺の釜(もりんじのかま)とは松浦静山の随筆『甲子夜話』に登場する化け狸の話である。昔話『分福茶釜』のモデルとされる。

応永年間のこと。上州(現・群馬県)の茂林寺という寺に守鶴という優秀な僧がいた。彼の愛用している茶釜はいくら汲んでも湯が尽きないという不思議な釜で、僧侶の集まりがあるときはこの釜で茶を振舞っていた。

あるときに守鶴が昼寝をしている様子を別の僧が覗くと、なんと守鶴の股から狸の尾が生えていた。守鶴の正体は狸、それも数千年を生きた狸であり、かつてインドで釈迦の説法を受け、中国を渡って日本へ来たのであった。不思議な茶釜も狸の術によるものであったのだ。

正体を知られた守鶴は寺を去ることを決意した。最後の別れの日、守鶴は幻術によって源平合戦の屋島の戦いや釈迦の入滅を人々に見せたという。

この説話をもとにして、昔話の『分福茶釜』が創作されたといわれている。(wikipediaより)


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鳴屋(やなり)


家鳴、家鳴り、鳴家(やなり)は、日本各地の伝承にある怪異の一つで、家や家具が理由もなく揺れ出す現象。

鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、小さな鬼のような妖怪がいたずらをして家を揺すって家鳴を起こしている絵が描かれているが、現代では西洋でいうところのポルターガイスト現象と同一のものと解釈されている。

なお、現代でも温度や湿度等の変動が原因で、家の構造材が軋むような音を発する事を「家鳴り」と呼ぶ。特に建材が馴染んでいない新築の家で起こることが多く、ひどい場合は欠陥住宅として建築会社と家主がトラブルになることもある。(wikipediaより)


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姥(やまうば)


山姥(やまうば、やまんば)は、奥山に棲む老女の怪。 日本の妖怪で、山に住み、人を食らうと考えられている。鬼婆(おにばば)、鬼女(きじょ)とも。

山の中に夜中行く当てもなくさまよう旅人に宿を提供し、はじめはきれいな婦人の格好を取り食事を与えるなどするが、夜寝た後取って食うといわれる。グリム童話に出てくる森の奥に住んでいる魔女のように、飢餓で口減らしのために山に捨てられた老婆などの伝承が姿を変えたもの、姥捨て伝説の副産物と解釈する説もあり、直接西欧の魔女に当たるものという説もある。

「山母」、「山姫」、「山女郎」とも呼ばれ、宮崎県西諸県郡真幸町(現えびの市)の「ヤマヒメ」は、洗い髪して、よい声で歌うという。岡山県の深山に存在する「ヤマヒメ」は、二十歳ほどの女性で、眉目秀麗で珍しい色の小袖に黒髪、出会った猟師が鉄砲で撃ったが、弾を手で掴んで微笑んだと伝えられる。 東海道や四国、九州南部の山地には、山姥と供に山爺がいる、山姥と山童が一緒に居ると伝え、山姥を「山母」、山爺を「山父」と呼ぶこともある。静岡県磐田郡の某家に来て休んだ「ヤマババ」は、木の皮を綴ったものを身にまとった柔和な女で、釜を借りて米を炊いたが、二合で釜が一杯になったという。特に変わったところもなかったが、縁側に腰掛けたときに床がミリミリと鳴ったという。八丈島でいう「テッジ」(テッチとも) は、神隠をしたり、一晩中、あらぬところを歩かせたりするが、親しくなるとマグサを運んでくれたりする。行方不明の子供を三日も養ってくれたこともある。体に瘡が出、乳を襷のように両肩に掛けると云う。香川県では川にいる山姥を「川女郎(かわじょろう)」といい、大水で堤が切れそうになると「家が流れるわ」と泣き声のような声をあげるという。静岡県周智郡春野町(現・浜松市)熊切には「ホッチョバア」という山姥が伝わり、夕方に山道に現れるほか、山から祭りや祝い事の音が聞こえてくる怪異はこの山姥の仕業とされた。長野県東筑摩郡には「ウバ」という、髪が長い一つ目の妖怪が伝わり、その名前から山姥の一種とも考えられている。

説話では、山姥に襲われるのは牛方や馬方、おけ屋、小間物屋などの旅職人や振売の徒であり、山道を歩き、山人との接触の多い彼らが、この話の伝搬者であったものと考えられる。牛に魚を積んで運ぶ男が、峠で山姥に遭遇し、追いかけられる『牛方山姥』や『食わず女房』、山姥に追いかけられた人間が、天から現われた鎖を上って逃げ、それを追って鎖を上って来た山姥が、そば畑に落ちて死ぬ『天道さんの金の鎖』などでは、山姥は、人を取って喰うとする恐ろしい化け物である。一方、木の実拾いにでかけた姉妹が出会う『糠福米福(米福粟福)』の山姥は、継母にいじめられる心優しい姉には宝を、意地の悪い本子である妹には不幸をもたらし、『姥皮』では、人間に福を授ける存在として山姥が登場する。高知県では、山姥が家にとり憑くとその家が急速に富むという伝承があり、なかには山姥を守護神として祀る家もある。

この様な両義性を持った山姥の原型は、先住民族の末裔、木地屋やサンカといった、山間を流浪する民であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられている。 土地によっては「山姥の洗濯日」と呼ぶ、水を使ってはいけないとか、洗濯をしてはいけないとする日があり、例えば北九州地方では、「山姥の洗濯日」は暮れの十三日または二十日とされ、この日は必ず雨が降るため洗濯をしないという風習が残っている。これは恐らく、雨を司る山神の巫女の禊の日であったものの名残りである。また、『遠野物語』には、狂人、山の神に娶られる者、あるいは山人に攫われる者といった、山隠れする女が山姥になったという話が伝えられており、出産のために女性が入山する習俗や、村落の祭にあたって選ばれた女性が山にこもるという、山岳信仰の習俗の名残りも認められる。上述の様に、山姥は人を喰う恐ろしい鬼女の性格の背理として、柔和で母性的な一面も伝えられ、足柄山の金太郎を始め、多くの神童、若子の母でもあった。長野県飯田市上村程野の伝説では、猟に出た山神の兄弟が、お産に苦しむ山姥に出会うが、長兄オホヤマツミノミコトがこれを助け、七万八千の子を産み、彼に猟運を授けた。山の中で出産に苦しむ山神や山姥、女に出会い、それを助けた人間が福をもたらされるという伝承は全国各地にいろいろな形で伝えられるが、同様に、女神たる山神も、多産、また難産であることが知られている。長野県飯田市上村下栗では、一度に七十五人の子を産むという山神や、徳島県では一度男の肌に触れただけで八万近くの子を妊娠した山神などがいる。宮崎県の千二百人の子を出産する山の女神また徳島や高知の昔話によると、山神の妻になった乙姫は一度に四百四人あるいは九万九千もの子を産んだと伝えられている。この様に、非常に妊娠しやすいという特徴、異常な多産と難産であるという資質は、元来、山の神の性格であり、山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持つことを示している。

山姥の産霊神的な特質を挙げるものとして、山姥の惨死した死体からは、様々なものが発生するという話がある。例えば『牛方山姥』では、殺された山姥の死体が、薬、金などの貴重なものとなって牛方を金持ちにしており、また山姥の大便や乳が、錦や糸などの貴重な宝物や、不思議な力を持つ品になったという話もある。『古事記』に登場するオホゲツヒメは、鼻、口、尻から食物を出し、自らの死体から蚕や稲、粟など作物を生じさせ、イザナミも、火の神を産んだ為に死ぬが、死の前に排泄物から、金鉱の神、粘土の神、水の神、食物の親神を生んでいる。しかしながら、イザナミの境遇にも明らかなように、母性を持った産霊神的な性格を持つ霊は、冷遇される傾向にある。古来神話は色々な勢力の伝承神話を融合したものであり、反発しあう勢力の神が一つの神話にまとめられると、敵対する勢力の神を部分的ではあるがあまり良くは伝えようとしないが、これは古事記にもすでに見られる現象である。『三枚の御札』は、小僧が山姥に追いかけられ、山姥に向かって投げた御札が、川や山などの障害物を出す話だが、この構造は、イザナギが、 黄泉の国でイザナミの姿を見てしまい、追いかけられて逃げ帰るという神話をベースにしており、地母神の劣化が、山姥という妖怪の本源と考えて良い。イザナミは難産死をしてしまい、それが出雲と伯耆の国境の比婆山に葬られたと古事記には記されているが、この「比婆山」が山姥の語源という指摘がある。産鉄の神、金屋子神もこういった女神を冷遇するような話が一部あり、美形の顔立ちではないため女性を嫌い、たたら場(古代製鉄場)を女人禁制としたとある。「山の神」という既婚女性の別称もこのような説話の名残であると考えられる。

また、謡曲『安達原』の「黒塚」、諏訪千本松原の「舌長姥」なども山姥の一種である。

山姥の伝承として有名なものに、足柄山の金太郎の母がいる。金太郎は、名を坂田公時といい、源頼光の四天王の一人となった人物である。『今昔物語集』では、976年、源頼光が上総国から上京したとき、相模国足柄山にさしかかったところで、向かいの山の険しい場所に赤い雲気を見つけ、人傑が隠居しているものと、渡辺綱を遣わした。赤い雲気のたちこめていた場所には、老婆と二十歳ほどの童形の若者が茅屋に住んでおり、尋ねたところによれば、老婆はある日、夢の中に現れた赤い竜と通じ、産まれた子がこの公時なのだと説いた。頼光は彼を常人ではないと感じ、坂田公時と名付けて家臣としたといわれている。(wikipediaより)


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山颪(やまおろし)


山颪(やまおろし)は、鳥山石燕による妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪。おろし金を頭に頂いた人型の妖怪として描かれ、頭部にはおろし金の無数の突起が毛髪のように並んでいる。

同画図の解説文ではこの妖怪を豪猪なる獣にたとえ、「豪猪といへる獣あり(略)此妖怪も名とかたちの似たるゆへにかく言ふならんと 夢心におもひぬ」と述べているが、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では「豪猪」はイノシシのような獣とされ、背に約1尺(約30センチメートル)の針が生えており、豪猪が怒るとこの針を矢のように飛ばすと述べられている。これは現在ではヤマアラシのことと推察されており、石燕はおろし金の突起をヤマアラシの刺にたとえ、このような妖怪を創作したと考えられている。おろし金の付喪神(器物が変化した妖怪)との解釈もある。

室町時代の『百鬼夜行絵巻』には、頭に浅沓(あさくつ、男性貴族の履物)を乗せたヤマアラシ状の妖怪が登場しており、これをもとに山颪が描かれたとの説もある。(wikipediaより)


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幽谷響(やまびこ)


幽谷響(やまびこ)は、日本の山の神・精霊・妖怪である。

また、山や谷の斜面に向かって音を発したとき、それが反響して遅れて返って来る現象を、山彦が応えた声、あるいは山彦が引き起こした現象と考え「山彦」と呼ぶ。その場合は幽谷響とも表記された。また、樹木の霊「木霊(木魂)」が応えた声と考え「木霊(こだま)」とも呼ぶ。

鳥取県鳥取市では、山中に住む呼子(よぶこ)または呼子鳥(よぶこどり)という者が、山彦の声を発すると考えられていた。高知県幡多郡橋上村(現・宿毛市)楠山では、昼夜問わず深山で突然恐ろしい声が聞こえる怪異をヤマヒコという。

西日本に伝わる妖怪の山童や、『和漢三才図会』にある妖怪の玃(やまこ)と同一視されることもあり、木の霊が山彦を起こすと考えられたことから、木の中に住んでいるという妖怪の彭侯とも同一視された。『百怪図巻』『画図百鬼夜行』などの妖怪画集にあるイヌのような姿の山彦は、玃または彭侯をモデルにしたものと考えられている。

前述の鳥取の呼子鳥は鳥の姿といわれるほか、長野県北安曇郡の小岩岳では人の言葉を返す「山彦岩」という岩があるなど、妖怪としての山彦の起源や種類は一様ではない。(wikipediaより)


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山童(やまわらわ)


山童(やまわろ、やまわらわ)は、九州を始めとする西日本地方に伝わる童子姿の妖怪。河童が変化したもので、山間部に棲むといわれる。山
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虎隠良・禅釜尚・槍毛長


手前から虎隠良(こいんりょう)、禅釜尚(ぜんふしょう)、槍毛長(やりけちょう)

虎隠良(こいんりょう)は、印籠が変化した日本の妖怪。

鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』に、槍の妖怪「槍毛長」と釜の妖怪「禅釜尚」の2体と共に登場する妖怪である(百器徒然袋#中を参照)。トラの皮で作った印籠を意味するとの説もある。

室町時代の『百鬼夜行絵巻』が由来とされているが、詳細は不明。(wikipediaより)



禅釜尚(ぜんふしょう)は、鳥山石燕による妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪の一つで、茶釜の妖怪。

茶釜を頭部に頂いた、人間に近い姿をした妖怪である。器物の妖怪が数ある中、釜は「吉備津の御釜占い」など吉兆を見極める占いに使用されるなど、器物の中でも特に神聖なものとされている。

妖怪漫画家・水木しげるの説によれば、これは草むらに隠れて近くを通る人の前に現れて驚かすもので、引き返せば何もしないが、前に進むと鋭い爪でひっかくという。付喪神(器物が変化した妖怪)の一種との解釈もある。

画図では槍毛長や虎隠良という妖怪が禅釜尚と共に描かれているが、禅釜尚との関連性は不明(百器徒然袋#中を参照)。

また、槍毛長と虎隠良は琴古主などと同様、室町時代の『百鬼夜行絵巻』にある妖怪がデザイン上のモチーフとされているが、禅釜尚のみは石燕のオリジナルらしい。

茶道は禅宗と深く関連しているため、「禅釜尚(ぜんふしょう)」の名は「禅和尚(ぜんおしょう)」をもじっているとの説もある。(wikipediaより)



槍毛長(やりけちょう)は、鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪。虎隠良や禅釜尚と共に描かれている(百器徒然袋#中を参照)。

先端に毛玉を飾りつけた槍、すなわち「毛槍」の妖怪である。『百器徒然袋』の解説文によればこの毛槍は「日本無双の剛の者」なる者が手にした槍だとされる。

毛槍は飾りの毛玉に鳥の毛が用いられているために「鳥毛槍」の名でも呼ばれており、この名を逆から呼んで「槍毛鳥」、転じて「槍毛長」と名づけられたとの説もある。

また『百器徒然袋』の槍毛長は木槌を振り上げているが、室町時代の『百鬼夜行絵巻』にも同様に木槌を振り上げた妖怪が描かれており、石燕はこれをモデルに槍毛長を描いたともいわれる。(wikipediaより)


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幽霊(ゆうれい)


幽霊(ゆうれい)とは、死んだ人間が成仏できず姿をあらわしたもの、死者の霊が現れたもの。

古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。
だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった。
「戦死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や戦争での戦死者のように、死んだ時の姿のまま現れると言われる幽霊も多い。
幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに何らかの思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す(成仏する)という。
日本で葬式の際に願戻し、死後の口寄せ、あるいは施餓鬼供養などを行うのは、ある意味で死者たちが成仏しやすくしてやり、幽霊化するのを防ぐことだといえる。

昔話には「子育て幽霊」や「幽霊女房」、「幽霊松」(切られると血を流す松)などの話がある。
日本は島国であるためなのか、海の幽霊の話も多い。船幽霊とも言う。その内容とは例えば、幽霊船が現れて、幽霊が「柄杓(ひしゃく)を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水船(水没してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする。紀州に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる。

幽霊は室町時代以降、歌謡や歌舞伎のテーマとしても扱われるようになった。

津村淙庵の話(1795)では相州(神奈川)にある灯明台に7月13日にかならず、遭難した船の乗員の幽霊が集まったという。

出会った時点では幽霊であるとは気づかず、後になってから、すでに亡くなった人物(=幽霊)であったと気づく話は、古代から現代にかけて語られている。

『日本書紀』:雄略天皇9年(465年)条の記述。
『耳嚢』 巻之五:寛政7年(1795年)に亡くなった侍の話。

伝承される文化・伝承として

江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には幽霊話が大流行し、雨月物語、牡丹燈籠、四谷怪談などの名作が作られ、また講談・落語や草双紙・浮世絵で描かれ花開き、現在も題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。

1825年7月26日に江戸の中村座という芝居小屋で「東海道四谷怪談」が初公演された事に因んで、7月26日は「幽霊の日」となっている。

幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻

日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた。歌謡などの中でそうされていた。

江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子(ぬかえぼし)をつけ白衣を着ているとされることが多くなった。

元禄年間(1688-1704)刊行の『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっていた。だが、『太平百物語』(1732年)では、幽霊の腰から下が細く描かれた。

享保年間(1716-36)ころになると、下半身がもうろうとした姿で、さらに時代を経るとひじを曲げ手先を垂れる姿で描かれるようになり、定型化した像(ステレオタイプ)が形作られていった。

1785-87に書かれた横井也有の『鶉衣(うずらごろも)』には、腰から下のあるものもないものもある、と書かれている。

墓地や川べりの柳の下などの場所に現れるとすることが多く、丑三つ時(午前2時ごろ)といった特定の時刻に出現するともいわれている。古くは物の怪の類は真夜中ではなく、日暮れ時(逢魔時、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていたが、江戸期を通じて現代にまで及ぶステレオタイプが形成されたと思われる。

定型化した"死装束の幽霊"、"足のない幽霊"

『乱れ髪に天冠(三角頭巾)、死装束の足がない女性』という、芝居やお化け屋敷などでもおなじみの定型化した姿は(いわば「日本型幽霊」)は、演劇や文芸の影響が大きいと言われている。河出書房から出版された『渡る世間は「間違い」だらけ』によると、歌舞伎の舞台「四谷怪談」の演出で幽霊の足を隠して登場したものがルーツだとしている。江戸期に浮世絵の題材として描かれてから定着したものである、とも言う。『番町皿屋敷』の影響もあるともいう。円山応挙(1733-1795)の幽霊画の影響もあった、とされる。応挙の幽霊画は江戸時代から有名であったらしく、その後多くの画家に影響を与えたといわれている。

ただし、「足のない幽霊を最初に書いたのは円山応挙」とまで言ってしまう説については、俗説あるいは不正確な説、と指摘されており、実際には、応挙誕生以前の1673年に描かれた「花山院きさきあらそひ」という浄瑠璃本の挿絵に、足のない幽霊の絵が描かれている。この時代にはすでに「幽霊=足がない」という概念があったようである。

この定型と対比する形で「海外の幽霊は足があるものが多い」と言うこともある。 幽霊の中でも「牡丹灯篭」のお露のように、下駄の音を響かせて現れる者もいるが、これは明治期になって中国の怪異譚を参考に創作されたものである。近年も死者の霊が登場する都市伝説が多く語られているが、外見上生きている人間と区別がつかない幽霊も多く、「死装束を着た足のない幽霊」が「出現」することはほとんどない。(wikipediaより)


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雪女(ゆきおんな)


雪女(ゆきおんな)は、雪の妖怪。「ユキムスメ」、「ユキオナゴ」、「ユキジョロウ(雪女郎)」、「ユキアネサ」、「雪オンバ」、「雪ンバ」(愛媛)、「雪降り婆」とも呼ばれる。「ツララオンナ」、「カネコリムスメ」「シガマニョウボウ」など、つららに結びつけて呼ばれることも多い。

雪女の起源は古く、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による『宗祇諸国物語』には、法師が越後国(現・新潟県)に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかる。

雪女は『宗祇諸国物語』をもとにしたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』「雪女」の様に、美しい女性として語られることが多く、雪の性質からはかなさを連想させられる。雪男は近代にイエティ、ビッグフットの訳語として付けられただけで「雪女」とは関係ない。

伝承では、新潟県小千谷地方では、男のところに美しい女が訪ね、女は自ら望んで男の嫁になるが、嫁の嫌がるのを無理にふろに入れると姿がなくなり、男が切り落とした細い氷柱の欠片だけが浮いていたという。青森県や山形県にも同様の話があり「しがま女房」などと呼ばれる。山形県上山地方の雪女は、雪の夜に老夫婦のもとを訪ね、囲炉裏の火にあたらせてもらうが、夜更けにまた旅に出ようとするので、翁が娘の手をとって押し止めようとすると、ぞっとするほど冷たい。と、見る間に娘は雪煙となって、煙出しから出ていったという。また、姑獲鳥との接点も持っており、吹雪の晩に子供(雪ん子)を抱いて立ち、通る人間に子を抱いてくれと頼む話が伝えられる。その子を抱くと、子がどんどん重くなり、人は雪に埋もれて凍死するという。頼みを断わると、雪の谷に突き落とされるとも伝えられる。弘前では、ある武士が同様に雪女に子供を抱くよう頼まれたが、短刀を口に咥えて子供の頭の近くに刃がくるようにして抱いたところ、この怪異を逃れることができ、武士が子供を雪女に返すと、雪女は子供を抱いてくれたお礼といって数々の宝物をくれたという。抱きおおせた者は怪力を得るともいう。

長野県伊那地方では、雪女を「ユキオンバ」と呼び、雪の降る夜に山姥の姿であらわれると信じられている。同様に、愛媛県吉田では、雪の積もった夜に「ユキンバ」が出ると言って、子供を屋外に出さない様にする。また、岩手県遠野地方では、小正月の1月15日、または谷の満月の夜には、雪女が多くの童子をつれて野に出て遊ぶので、子供の外出を戒めるという。この様に、雪女を山姥と同じものとして扱うところも多く、多くの童子を連れるという多産の性質も、山姥のそれに類似している。和歌山県伊都地方では、雪の降り積む夜には1本足の子どもが飛び歩くので、翌朝に円形の足跡が残っているといい、これを「ユキンボウ」と言うが、1本足の童子は山神の使いとされている。鳥取県東伯郡小鹿村(現・三朝町)の雪女は、淡雪に乗って現れる時に、「氷ごせ湯ごせ」(「ごせ」とは「(物を)くれ、下さい」という意味の方言)と言いながら白幣を振り、水をかけると膨れ、湯をかけると消えるという。奈良県吉野郡十津川の流域でいう「オシロイバアサン」、「オシロイババア」も雪女の一種と思われ、鏡をジャラジャラ引きずってくるという。これらの白幣を振るという動作や、鏡を持つという姿は、生産と豊穣を司る山神に仕える巫女としての性格の名残であると考えられる。実際に青森では、雪女が正月三日に里に降り、最初の卯の日に山に帰ると云われ、卯の日の遅い年は作柄が変わるとされていた。

岩手県や宮城県の伝承では、雪女は人間の精気を奪うとされ、新潟県では子供の生き肝を抜き取る、人間を凍死させるなどといわれる。秋田県西馬音内では、雪女の顔を見たり言葉を交わしたりすると食い殺されるという。逆に茨城県や福島県磐城地方では、雪女の呼びかけに対して返事をしないと谷底へ突き落とされるという。福井県でも越娘(こしむすめ)といって、やはり呼びかけに対して背を向けた者を谷へ落とすという。

岐阜県揖斐郡揖斐川町では、ユキノドウという目に見えない怪物が雪女に姿を変えて現れるという。山小屋に現れて「水をくれ」と言うが、求めに応じて水を与えると殺されてしまうので、熱いお茶を出すべきとされる。またこのユキノドウを追い払うには「先クロモジに後ボーシ、締めつけ履いたら、如何なるものも、かのうまい」と唱えると良いという。

正月元旦に人間界に雪女が来て帰っていく青森県弘前市の伝承や岩手県遠野市の、小正月または冬の満月の日に雪女が多くの子を連れて遊ぶという伝承から見ても、このような人間界を訪れる日から雪女の歳神(としがみ)的性格を窺うことができる。吹雪の晩に雪女を親切にもてなしたところ、翌朝、雪女は黄金と化していたという、「大歳の客」系の昔話の存在も雪女の歳神的性格と無縁ではない。

雪女は子供をつれて出現することも多い。同じような子連れの妖怪、産女(うぶめ)の伝承とも通い合う。山形県最上郡では産女を雪女だと伝えている。

小泉八雲の「雪おんな」のように、山の猟師は泊り客の女と結婚し子供が生まれ、うっかり雪女とのタブーを口にしたため、女は自分は雪女だと伝え姿を消すタイプの昔話のパターンは新潟県、富山県、長野県に伝承があり、その発端は山の禁(タブー)を破ったために山の精霊に殺されるという山人の怪異譚に多い。雪女の伝説は、山人の怪異譚と雪女の怪異譚の複合により生まれたとする説もある。

雪女の昔話はほとんどが哀れな話であり、子のない老夫婦、山里で独り者の男、そういう人生で侘しい者が、吹雪の戸を叩く音から、自分が待ち望む者が来たのではと幻想することから始まったといえる。そして、その待ち望んだものと一緒に暮らす幸せを雪のように儚く幻想した話だという。それと同時に畏怖の感覚もあり、『遠野物語』にもあるように吹雪が外障子を叩く音を「障子さすり」と言い、雪女が障子を撫でていると遅寝の子を早く眠らす習俗もある。障子さすりのようなリアルな物言いにより、待ち望むものの訪れと恐怖とは背中合わせの関係であるといえる。また冬などの季節は神々の訪れであり、讃めなければひどいことになりかねず、待ち望むといってもあまり信用してはならない。なんにせよ季節の去来と関係した話といえる。風の又三郎などとも何処かで繋がるのではないかと、国文学者・古橋信孝は述べている。

雪女の正体は雪の精、雪の中で行き倒れになった女の霊などと様々な伝承がある。山形県小国地方の説話では、雪女郎(雪女)は元は月世界の姫であり、退屈な生活から抜け出すために雪と共に地上に降りてきたが、月へ帰れなくなったため、雪の降る月夜に現れるとされる。

江戸時代の知識人・山岡元隣は雪女は雪から生まれるという。物が多く積もれば必ずその中に生物を生ずるのが道理であり、水が深ければ魚、林が茂れば鳥を生ずる。雪も陰、女も陰であるから、越後などでは深い雪の中に雪女を生ずることもあるかも知れぬといっている。

日本の伝統文化の中で、雪女は幸若の『伏見常磐』などに見られ、近世には確認できる。近松門左衛門の「雪女五枚羽子板」がありだまされ惨殺された女が雪女となり復讐する話である。雪女の妖艶で凄惨な感じがうまく使われている。昔話・伝承では青森、山形、秋田、岩手、福島、新潟、長野、和歌山、愛媛などで確認されている。(wikipediaより)


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夜泣石(よなきいし)


夜泣石(よなきいし)は、静岡県(旧遠江国)掛川市佐夜鹿の小夜の中山(さよのなかやま)峠にある石。夜になると泣くという伝説があり、遠州七不思議のひとつに数えられる。

地図上では佐夜の中山と表記されるが、夜泣き石の伝説においては小夜の中山と表記されることが多い。このページでは小夜の中山とする。

小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所である。曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。

その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた。生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。

そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。

その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号をきざんでいったという。(wikipediaより)


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羅城門鬼(らしょうもんのおに)


羅城門の鬼、羅生門の鬼(らしょうもんのおに)は、平安京の正門・羅城門に巣食っていたといわれる鬼。平安時代の謡曲『羅生門』などに登場する。

源頼光が酒呑童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、平井(または四天王の1人・卜部季武)が、羅城門に鬼がいると言い出した。四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住む謂れはないと言い、確かめるために鎧兜と先祖伝来の太刀で武装して馬に乗り、従者も従えずに1人で羅城門へ向かった。

九条通に出て羅城門が正面に見えてきた頃、急に激しい風に見舞われ、馬が動かなくなった。綱が馬から降りて羅城門へ向かうと、背後から現れた鬼に兜をつかまれた。すかさず綱が太刀で斬りつけたが、逆に兜を奪われた。綱の太刀と鬼の鉄杖が激しくぶつかり合った末、綱はついに鬼の片腕を斬り落とした。鬼は「時節を待ちて、取り返すべし」と叫んで、空を覆う黒雲の彼方へ消えて行ったという。

『平家物語』剣の巻にある一条戻橋の鬼の話では、綱が鬼の腕を斬り落とす場面の舞台は一条戻橋であり、この後に鬼が綱の乳母に化けて腕を奪い去るとある。謡曲『羅生門』は『平家物語』で綱と鬼との戦いまでの話をもとに、舞台を一条戻橋から羅城門に変えて創作されたものとされ、その後の鬼の報復の話は謡曲では『羅生門』とは別作品の『茨木』になっている。このことから、別々の鬼である羅城門の鬼と茨木童子がしばしば同一視される。(wikipediaより)


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飛頭蛮(ろくろくび)


飛頭蛮(ろくろくび)は、日本の妖怪の一種。大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在する。古典の怪談や随筆によく登場し、妖怪画の題材となることも多いが、ほとんどは日本の怪奇趣味を満足させるために創作されたものとの指摘もある。

いずれも外見上は普通の人間とほとんど変わらない。首が伸びるタイプはろくろを回して陶器を作る際に粘土が長く伸びるように、異常に長く伸び縮みする首を持つ。

ろくろ首の名称は、妖怪研究家・多田克己によれば長く伸びた首が井戸のろくろ(重量物を引き上げる滑車)に似ていることが由来とされ、推理作家・阿部主計によれば、傘のろくろ(傘の開閉に用いる仕掛け)を上げるに従って傘の柄が長く見えることが由来とされる。(wikipediaより)


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わいら


わいらは、佐脇嵩之の『百怪図巻』、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』などの日本の古典の妖怪絵巻にある妖怪。

絵巻では、巨大な牛のような体に、前足には太く鋭い鉤爪を1本ずつ持った姿で描かれている。いずれの画も上半身のみであり、下半身を描いた画は確認されておらず、全身像も明らかになっていない。

いずれの絵巻にも名称以外の解説文が一切なく、民間伝承を解説した書物も存在しないため、どのような妖怪を意図して描かれたかは不明。「畏(わい)」とは「恐れる」「怖れる」を意味し、畏畾(わいらい)とは「かしこまる」「その場に畏(おそ)る」を意味することから、これらの言葉がわいらの這いつくばった姿に繋がるとの指摘もある。また、『百怪図巻』『画図百鬼夜行』のいずれも「わいら」と「おとろし」と並べて描いていることから、「恐い(わいら)」「恐ろしい(おとろし)」を具現化した2体で一対の妖怪だとする解釈もある。

美術史学者の辻惟雄は『百怪図巻』の異本『化物づくし』を取り上げ、「わいら」を「ガマの変形らしい緑色の怪物」と解説している(画像参照)。昭和以降の妖怪関連の文献での記述によれば、ガマが年を経て霊力を得て妖怪化して山奥に住んでいるもので、体色は緑色、もしくは雄が土色、雌は赤色をしているともいい、前足の鉤爪で土を掘り返して小動物を食べるとされる。

茨城県の山中でモグラを食べているわいらが目撃されたとの説もあるが、妖怪研究家の多田克己や村上健司らの指摘によれば、この説の原典は作家・山田野理夫の著書『おばけ文庫』であり、山田が子供向けに創作したものと指摘されている。ただし山田自身は創作ではなく、出典元は失念したもののどこかで見たものだと主張している。(wikipediaより)


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輪入道(わにゅうどう)


輪入道(わにゅうどう)は、鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にある日本の妖怪。

画図では炎に包まれた牛車の車輪の中央に男の顔が付いた姿として描かれており、解説文には以下のように述べられている。

車の轂(こしき)に大なる入道の首つきたるが かた輪にてをのれとめぐりありくあり これをみる者魂を失う 此所勝母の里と紙にかきて家の出入の戸におせば あへてちかづく事なしとぞ

輪入道は自分の姿を見た者の魂を抜いていき、「此所勝母の里」と書いた紙を呪符として家の戸に貼ると、輪入道が近づくことができないという意味である。「此所勝母の里」とは、中国の儒家の始祖・孔子の門人である曾子が「母に勝つ」の名を嫌って勝母の里に足を踏み入れなかったという『史記』「鄒陽列伝」での逸話が由来とされている。

石燕の輪入道は、1677年(延宝5年)刊行の怪談集『諸国百物語』巻一「京東洞院かたわ車の事」で、京都の東洞院通に現れたという車輪の妖怪「かたわ車」のことを描いたものとされており、『今昔画図続百鬼』で別々の妖怪として描かれている片輪車と輪入道を同一のものとする解釈もある。『今昔画図続百鬼』の輪入道は男性、片輪車は女性として描かれているが、1743年(寛保3年)の雑書『諸国里人談』の刊行から片輪車が女性として描かれ始めており、『諸国百物語』の刊行年である1677年を起点として、同一のものである片輪車が、片輪車と輪入道という2つの妖怪に分岐したとの説もある。(wikipediaより)


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アルフレッド・アドラー 名言

アルフレッド・アドラー(Alfred Adler 独語での発音はアルフレート・アドラー、1870年2月7日 - 1937年5月28日)は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。(wikipediaより)



「自分が不完全であることを認める勇気が必要だ。人間は不完全だから努力するのである」



「憂うつ?他人を喜ばすことを毎日考えてみることです。そうしたら、きっと二週間で全快しますよ。いいですか、不幸になる人は、自分のことだけを考えているんです」


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アンネ・フランク 名言

アンネフランクアンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク、ドイツ語: Annelies Marie Frank、1929年6月12日 - 1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。(wikipediaより)



「母親が子どもにちゃんと話さないと、子どもは他の人からいろいろと聞きかじる。そして、その聞きかじった知識は間違ったものが多い」


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イソップ 名言

アイソーポス(紀元前619年 - 紀元前564年ごろ)は、古代ギリシアの寓話作家。奴隷だったと伝えられる。日本では英語読みのイソップという名でイソップ寓話の作者として知られる。(wikipediaより)



「それは、あなたにとっては遊びかもしれないが、私達にとっては死を意味するんです」



「学校の成績が良いからといって、社会で認められるとは限らない」


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アルベール・カミュ 名言

カミュアルベール・カミュ(Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家。フランス領アルジェリア出身。アルジェ大学卒業後ジャーナリストとして活動、第二次大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目される。また『カリギュラ』『誤解』などを上演し劇作家としても活動。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなったが、エッセイ『反抗的人間』はその思想をめぐって毀誉褒貶を受けた。1957年、史上二番目の若さでノーベル文学賞受賞。1960年、交通事故により急死。(wikipediaより)



「対話のないとことに生命はない。ところが今日、世界中で対話は論争に置き換えられる」



「貧困は僕にとって必ずしも憎むべきものではなかった。なぜなら、太陽と海は決して金では買えなかったから」


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アレキサンダー・ポープ 名言

ポープアレキサンダー・ポープ(Alexander Pope,1688年5月21日 - 1744年5月30日)はイギリスの詩人。父はカトリック教徒のリンネル商。(wikipediaより)



「希望は人間の心に永遠に湧くものである。だから『今が幸せ』という感覚はなく、常に幸福は未来にある」



「言い訳は嘘より恐ろしい。それは言い訳は防衛された嘘だからである」



「愚者は、天使も恐れて入らないような場所にも突進する」


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イマヌエル・カント 名言

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。ドイツ観念論哲学の祖ともされる。(wikipediaより)



「努力によって得られる習慣のみが善である」



「人は義務を果たすために生きるのである」



「天才とは自ら法則つくる者である」


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サン=テグジュペリ 名言

サン=テグジュペリ(Saint-Exupéry、1900年6月29日 - 1944年7月31日)は、フランスの作家、操縦士。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれる。(wikipediaより)



「愛する・・・それはお互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」


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シュヴァイツァー 名言

アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer, 1875年1月14日 - 1965年9月4日)は、ドイツ出身のアルザス人で、フランスの神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者。(wikipediaより)



「成功の最大の秘訣は、他人や状況に振り回されない人間になること。それだけだ」


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芥川 龍之介 名言

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人、俳号は我鬼。その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。(wikipediaより)




「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし、重大に扱わねば危険である」



「人間は自然の与えた能力の制限を越えることはできない。そうかといって、怠けていれば、その制限の所在さえ知らずに過ぎてしまう。だから皆ゲーテになる気で精進することが必要なのだ」



「運命は性格の中にある」


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井伊 直弼 名言

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。(wikipediaより)




「茶の湯の交会は、一期一会といひて、例えば幾度同じ主客交会するとも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実に我が一世一度の会なり」

茶の席で同じ人と向き合うことになろうが、この機会は一度限りのものなので大事にしなければならないという意味。「一期一会」という言葉は、もともと千利休の弟子山上宗二の著書にあったもの。それを井伊直弼は自分の茶道の心得とし、井伊の言葉が広まったと言われている。


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こそあど言葉

「こそあど言葉」って知っていますか?

まぁ、普段の日常生活の中で意識しないで使ってるから、別に知らなくてもいいんですけどね。

こそあど言葉とは指示語の頭文字をとっていいます。

例えば「れ」「れ」「れ」「れ」

小中学校レベルの国語の文法ですね。簡単というより考えるまでもないと思うけど、だからこそ間違った使い方をする人が多いらしい。

他にもいろいろな指示語がありますが、接客や、面接の時など言葉づかいに気をつけなければならない時、こそあど言葉はどう使えばいいのか?

こそあど言葉には敬語があって、実はとっても簡単です。

人称こいつそいつあいつどいつ
場所ここそこあそこどこ
方向こっちそっちあっちどっち
事物これそれあれどれ
このそのあのどの



敬語こちらそちらあちらどちら


人称、場所、方向、事物については、「こちら」「そちら」「あちら」「どちら」がすべてあてはまるので、大体の指示語に対応できます。

かなり実用的なので「知らなかったぁ」って人は明日から使ってみてはいかが?


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岩倉 具視 名言

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。(wikipediaより)



「敷島の道こそわきて仰かるれ すなほなる世の教えとおもへは」

日本の心の道は、素直に生きることであるという意味。


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石川 啄木 名言

石川啄木石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。本名は一(はじめ)。



「働けど働けど なお我が暮らし楽にならざり じっと手を見る」


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有島 武郎 名言

有島武郎有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。
学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。ハバフォード大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。



「愛は惜しみなく奪う」


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ウェリントン 名言

アーサー・ウェルズリー・ウェリントン(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769年4月30日-1852年9月14日)は、イギリスの軍人、政治家。外務大臣をつとめた初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリーは兄。ナポレオンとの戦いで軍功を重ね、最終的にワーテルローの戦いで打ち破ったことで知られる。通称は「鉄の公爵」(Iron Duke)。後に首相となる。愛馬はコペンハーゲン。(wikipediaより)




「恐れを知って、しかもそれを恐れないものこそ、真の勇者である」


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